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キ(支、岐、伎、杵、耆、藝、鬼、来、城、吉、木、貴、槻)またはギ(伎、耆、杵、藝)は4世紀までの古代日本における男子首長の称号の一つとして〔 中田薫「可婆根考」『史学雑誌』16巻12号(1906年)〕、またその男子首長(族長)の支配地域の名称語尾として使われた言葉。名称語尾の「キ」は原始的カバネとして氏族の始祖名に用いられ、のちに地名や神社名にも反映される。ヤマト政権のカバネ制度においても、「イナキ(稲置)」や「イミキ(忌寸)」にその名残をとどめている〔 太田亮『日本上代における社会組織の研究』1921年 380頁〕。 == 始祖名や国名(地名)のキ == 4〜6世紀の地方の男子首長または統治者の名称語尾に「キ」が使われている例として、次のような人物あるいは始祖が伝えられている。国造の始祖としては能登国造の祖「オオイリキ(大入杵、大入来)」、下海上国造の祖クツキ(久都伎直)、佐渡国造の祖オオアラキ(大荒木直)、新治国造の祖ミツロキ(美都呂岐命)の児、および安房(阿波)国造の祖オオタキ(大伴直大瀧)である。氏族の始祖で地域の首長と考えられるものとしては但馬氏の始祖の一人「ヒナラキ(比那良岐、日楢杵)」、物部氏の始祖の一人「オオヘソキ(大綜杵)」、ヤマトタケルの子孫で淡海国柴野地方の「シバノイリキ(柴野入杵)」、多氏の祖「タケモロキ(武諸木)」そして皇室の祖の一人「ニニギ(邇邇芸、瓊瓊杵)」が見られる。 また「キ」が古くから使われたと思われる地名を負う人名の一つに「シキ(磯城、志貴、師木)」(大和国磯城郡)がある。 神武天皇が征服し都と定めたとされる磯城地方(現在の奈良県桜井市付近)には、それ以前にこの地を治めていたニギハヤヒ系の兄磯城および弟磯城と呼ばれるヒメヒコ制の首長が伝えられている。磯城のヒメヒコ制に関係していると考えられる「シキツヒコ(師木津日子、磯城津彦)」の子孫が伊賀国や尾張国の「イナキ(稲置)」の祖になり、「シキツヒメ(磯城県主、真鳥媛)」から物部氏に連なる志貴連の始祖「ヒコユキ(彦湯支)」が伝えられている。また「シキツヒコ」(安寧天皇と磯城県主の子)の子孫「三野之稲置(美濃の稲木)」の地の可能性が高い尾張国丹羽郡稲木郷は「イナギ(稲木)氏」の本拠地と考えられ稲木神社(稲木天神)が残されている。 美濃国不破郡の「イフキまたはイホキ」(伊福貴、伊夫伎、五百木)地方(現在の岐阜県大垣市)は景行天皇の子「イオキイリヒコ(五百城入彦)」が遣わされ統治者となった地方で、ヤマトタケルが征服できなかった「伊吹」の地とも考えられている。この地を本拠とした伊福部氏または五百木部氏は、氏神または始祖の「伊福貴大明神」をここで伊富岐(伊夫伎)神社に祭っている。 他に3〜4世紀の皇族(崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇)の子孫が統治者や姫として迎えられたり(イリヒコ、イリヒメ)、領地を分け与えられたり(ワケ)している地方は、それ以前の首長が存在していたことを前提としている。そうした地方の中で「キ」の語尾名称を持つ地名には能登国の「イワキ(石城、磐木)」、伊賀国の「ヒジキ(比自岐)」、伊予国の「トホキ(十城)」などがある。 このように見てくると4〜5世紀の地方の男子首長あるいは統治者の語尾名称として「キ」が使われていたことがわかる。しかし、古代の称号語尾としてよく見られるヒメ、ヒコ、ミ、ネなどに比べると「キ」の称号を付けている人物は少ない。しかも「キヒコ」「キヒメ」など称号が重複して「キ」の称号としての意味が失われ、「ヒコ」や「ヒメ」の称号に取って代わられている例も見られる。これは後から優勢となってきた「ヒメヒコ」称号に対し、古くから存在していた「キ」の称号が使われなくなったためと理解することができる。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「キ (称号)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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